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子供とグリーフ No.2

細谷亮太先生の講演「子供のターミナル・ケア」について感想を書いたところ、早速コメントをメールで寄せて下さった方があったので、再び同じテーマで「続き」を書きたいと思います。
   もう一つ心に残ったこと: 細谷先生が小児患者のQuality of Lifeについて、子供さんのご両親と対話されている場面でした。まず、先生はご両親に「現行の治療は効果が見られず、もはや別の治療法もありません」と告知します。まさに、医療従事者として、現代医学の「限界」、言い替えればこのケースに関しては「敗北」を認めざるを得ない苦しい状況です。ご両親の側から見れば、まさに「死の宣告」を受けたことになります。私はこの場面でお母さんが泣き崩れるのではないかと、ハラハラして画面を見ていました。そして「泣きべそ先生」ももらい泣きするのではと。しかし、それは私の一瞬の危惧に終わりました。両者とも毅然としていました。
   先生は続けます 「無駄な治療を止めて、素平君(患者)に何か一生の思い出になる、特別なイベントを考えて上げたらどうでしょうか?」とご両親に提案します。もはや治る見込みのない患者さんに対して、最後を安楽に「意義深く」過ごしてもらう、QLの基本理念に添ったご提案です。それに対して、お母さんは(泣き崩れるどころか)まさに毅然とした態度ではっきり答えました。「息子は、治療で回復すると信じて今日まで頑張ってきました。治療をやり続けることで(たとえ効果がなくても)最後まで子供に回復の希望を持ち続けさせてやりたいのです」と。それは、通常のQLの理念とも、恐らく細谷先生の通常のお考えとも、私が素人的に考えることとも、違っているように思えました。
   QLの意味とは、まさに患者とその家族が決めることなのですね。それには常識もマニュアルもないとつくづく思いました。特に患者が小児だった場合は、母親が本人の代弁者として、何が子供にとってベストであるか、子供の身になって考えてあげるのだなあと思いました。まさに母親らしい意見がもう一つありました。お母さんは続けました。「息子は、同室の子供さんたちとお友達になり、今はお友達が何よりの慰めです。特別なイベントよりも、ここ(病院)でいつも通りの日常を過ごすことが彼にとって、最も幸せなことだと思います」と言われました。
   このお母さんのグリーフは既に今回の「告知」の時点で始まっているはずです。お子さんの「死」を覚悟しなければならないーAnticipatory Griefです。いや、もっとさかのぼって最初に病状告知を受けた時点で既にAnticipatory Griefは始まっていたでしょう。(その時点では、むろん回復の希望もあったでしょうけれど、お子さんはは健常の生活を断念しているのです。ご家族にとって、お子さんにとって大きな喪失です)この大変な状況で、お母さんがこれだけ冷静に息子さんのQLについて思考し、それを細谷先生に伝えたことに私は「母親はスゴい」と改めて感じ入ったのでした。恐らくここに至るまで、先生とご両親との間に信頼関係が充分確立されてきた、だからお母さんも「安心して」先生に話せたということもあるでしょう。お母さんの発言に、子供愛に、細谷先生も説得されたようでした。素平君の治療は続行しました(多分、副作用を緩和した形でーでも嘔吐などの不快感は残ります)。医療従事者として、この説得につて細谷先生の感想が聞きたかったです。見方によれば、無駄とも言える治療をすることに先生は葛藤が無かっただろうか?
   この告知の場面、関係者が「冷静」とか「毅然」とか言いましたが、告げる方も告げられる方もその心痛はいかばかりか、私は両サイドに立って「もらい泣き」ならぬ「もらいグリーフ」をしてしまいました。しかし、なぜかその場面には「人間愛」が溢れている感じもして感動しました。そして、素平君が最後にどんなことを考えていたのだろうか?ビデオではそのことに言及していませんが、ふっとそのことが気になりました。ご両親は細谷先生が書かれた「子供と死」についての本など読んで上げたのだろうか?などのことも思いました。あるいは最後まで「平常」に接しておられたのかもしれないーそれが愛情なのかもしれないとも思いました。
   細谷先生が強調されたこと:科学や現代医学は万能ではないーそのことを忘れないで下さいということでした。裏を返せば、万能だと思って医師に頼ろうとする患者や家族が結構いるという意味なのでしょう。もしかしたら、社会全体が科学万能主義に汚染されているのかもしれません。私たちは「死を否認する」社会に生きているのであり、「死」を含めて自然を全てコントロールできると奢っているところがあるのでしょう。医療従事者と、不治の病と闘う患者さん、その家族だけが、「死を否認できない」場所にいて、「そうじゃないんだよー」と叫んでいるように思われます。とりもなおさず、我々の社会は、死と向き合う人々、死別体験をした人々をいかに阻害していることか、彼らがその社会で生きることに、いかに孤独感をつのらせていることか、改めて感じました。
   最後に、「子供とグリーフ」のページを締めくくるにあたり、その専門家フィリス・シルバーマン博士の提唱するContinuing Bond(永遠の愛の絆)を強調したいです。シルバーマン女史は、ハーバード・メディカル・スクールの研究結果より、「幼くして死別体験(研究は特に親を亡くした子供が対象)をした子供たちは、同年齢の子供たちと比較して、spiritual abilityがより発達する」といいます。それは、遺された子供が亡くなった親とずっと絆を保ちたい一心で、
対話し続けているからに他ならないからです。彼らにとって「見える世界」が全てではなく、「見えない世界」が厳然と存在し、見えないものに価値を見いだしているのです。それは、神秘的な経験などではなく、現実的な経験であると思われます。
   素平くんを亡くした友達の司君が、ミッキーマウスのシールに素平君の存在を感じ取ります。ミッキーは単なるシンボルに過ぎないけれど、司君にとっては「目に見えない」世界を思い起こさせるきっかけです。幼いながら、司君の姿に、人間に生まれつき備わっているspiritual abilityー時空を超えて過去や未来に生きるーについて思いをはせました。思い出す行為は、たんなる記憶(メモリー)の世界とはいえず、ある哲学者が「過去を現在に再現し、そこに生きること」といいました。希望する行為は逆に「未来を想像し、そこに生きる」こととなります。そうすると、RememberもHopeも「現実」であり、私たちの世界はとうてい目に見える世界だけではなくなります。Spiritualとは、とかく神秘的な能力あるいは宗教的な能力のように考えられる昨今ですが、決してそうではありません。もっと広い意味で、時空を超えることが出来る人間だれにもそなわった能力なのです。その素晴らしい能力を、もっと生かせる社会にならないものでしょうか?


   
by yoshikos11 | 2006-03-28 14:33 | グリーフ | Comments(0)

子供とグリーフ

   昨日は、東洋英和大学院、人間科学研究会主催の講演会を聴きに行きました。今回の講師は聖路加国際病院の細谷亮太先生で、演題は「子供のターミナル・ケア」でした。この会との出会いは、昨年代表の小山千加代さんにご依頼を受けて、私自身が「伴侶との死別」についてというテーマで、自分のグリーフ・ストーリーを話させていただいたのがきっかけです。私が、夫との死別という人生の大きな喪失体験をして、グリーフに興味を持ち、とうとうカナダにまで留学してしまい、ビリーブメント&グリーフ.スタディーという専門のコースを修得することになった、そんな経緯をお話ししました。4年にわたる勉学の内容を絞り込んで、しかも一時間半で話すのに、大変苦労した記憶です。
   さて、細谷先生の講演は、カナダへ留学する以前、5−6年前に一度聴きに行ったことがあります。人情味溢れる先生というのが、私のその時の印象でした。先生は子供の死に直面して、遺族と一緒に泣いてしまう「泣きべそ先生」と女性の看護士さんから呼ばれているそうです。「医大の恩師からは、患者さんや家族にあまり感情移入するなと指導されたのだが、自分はそれを守れない」と先生が言われたを今でも覚えています。
   そして、もう一つ細谷先生の印象的な言葉を思い出しました。「これまでに、多くの小児患者さんを看取って、数々の思い出があるけれど、生存した子供も亡くなった子供も、自分の心のなかに等しく焼き付いている。だから、自分にとって生と死の境が次第にファジーになって、どっちの世界も一緒のように思えて来た」と言われたことでした。私は、ターミナル・ケアに身を置くってそういうことなのかと、感慨深く聞いたものでした。今にして思えば、それは細谷先生が亡くなって逝った子供たちを、限りなくグリーフしているという意味ではないのか? グリーフのspiritual reactionというべきものだろうか?そんな風に思えます。昨日は、久々に「泣きべそ先生」にお会い出来るのが楽しみでもあり、出かけました。
   今回は、30分くらいビデオを見せられました。NHKが1年間かけて聖路加の小児病棟で制作したものだそうです。白血病で亡くなったまだ5−6歳の素平君と、同室で仲良しになった同年代の司君の友情物語で、特に心を打ったのは友達を亡くした司君のグリーフする場面です。むろん、5−6歳の子供には、「死」について大人のように抽象的な思考はできないし、知識として論理的に理解することもできません。実は大人だって、本当はよく分からないのが「死」かもしれませんね。しかし、6歳の子供でも「なんだか大変なことが起きたのだ」ということを、肌で感じているのでしょう。その嘆き悲しむ様子を見ると、大人のグリーフする様と何ら変わりがないみたいで、まるで「死」が何だか分かっているかのようにさえ見えるのです。「もう二度と会えない」その辛さを表現しているようで、もう一つ言えば「どうして、僕にさようならも言わずに、突然逝ってしまったの」とでも言いたげで、納得していない。(司君が一時帰宅し手いる間に素平君は亡くなった)
   ここでは、どうやって幼い子供に死について教えたらよいか?とうい問題が提起されています。司君のグリーフを緩和するには、やはり納得のいく説明をしてあげなければダメということが、よく分かります。子供はあなどれません。死を頭で理解出来なくても、心では何か感じているのですから。そして、細谷先生も言われたように、日頃からペットや生き物の死を経験した時、そのチャンスをとらえて教えることが大切です。急に教えるのはいかにも難しそうです。そして、もう一つ大切なことは、子供は大人のように感情の細分化をして「悲しい」「つらい」「怒り」「寂しい」などなど表現する言葉をしらないという点です。それについては、絵を描かせて自分の感情表現をさせる方法があります。色や形に置き換えるのです。子供は結構上手に絵に表すことができます。
   今回、細谷先生はビデオをとおして、子供の世界を見せて下さいました。幼い子供でも、病気で苦しむ友達の「痛み」が理解出来ること、そして労ったり、気を配ったり, やさしくしてあげられることなどを見た思いです。もしかして、大人顔負けかもしれません。以前、カナダで「子供と死」というコースを取った時に、授業で、子供のサポート・グループの様子を収録したビデオで見ました。まさに大人顔負けの「慰め合い」「支え合い」をしているのです。人間は生まれつきそういう「やさしさ」を持っているのかとさえ思ったものでした。
   細谷先生は、今回あまり多くは、おしゃべりされなかった気がしました。時間が足らなかったのかもしれません。沢山の幼い命を見送る立場にいる先生は、きっと「山ほど」言いたいことがあるはずー私が勝手にそう期待したのかもしれない。あるいは、先生の「思い」はきっと言葉にできない、言い尽くせないほどなのかもしれませんね。ただ2−3心に残ったこ言葉がありました。中でも、「先天性の病気を持つ親の大変さ、辛さをもっと社会全体が支えてあげるべきだ」ということでした。この社会は、グリーフ・フレンドリーではないのです。「つらい」ことや「悲しい」ことを、できるだけ見ないように、触れないように、聞かないように、そうやって人々が暮らしているのです。細谷先生は、不治の病と闘う子供とその親、そして子供を幼くして亡くした親の測り知れないグリーフを、代弁してこのように言われたのでしょう。子供を亡くした両親のグリーフは永遠と言います。私はそのような経験がありませんので、「よく分かる」とはとうてい言えないでしょう。でも、自分のグリーフがどんなかは知っています。そして、相手にの気持に出来るだけそえるようになりたいと思っています。
   
by yoshikos11 | 2006-03-27 01:41 | Comments(0)

グリーフ・サポート・サークル

皆さんこんにちは。
この度、ブログを開きました。
徐々に、グリーフ&ビリーブメント関連のことを書いて行こうと思います。
皆さんに興味を持っていただける、ページにしていきたいので、よろしく!
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鈴木 剛子
by yoshikos11 | 2006-03-26 16:20 | Comments(1)