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ケネディ兄弟、最後の星が消えて

 J.F.ケネディとロバート・ケネディが暗殺され、悲劇のケネディ兄弟の最後の星だった、エドワード・ケネディが死去しました。40余年間の長きに亘る上院議員としての経歴を残して。晩年は脳腫瘍と闘っていました。

 一月、オバマ大統領の就任式には病気を押しての出席でしたが、テレビでエドワード氏の姿を見た私は何とも痛々しいと思った記憶です。結局、祝賀ランチの途中で倒れ、救急車で病院に担ぎ込まれました。ランチは一時騒然とし、就任したばかりのオバマ大統領の心配そうな様子、「無事を祈る」と話したことなど、今、思い出しました。

 エドワード・ケネディは、兄たちに比較すれば、2倍近い生涯(78歳)を全うしたわけですが、兄たちと違ったこと。それは「大統領には決してなれないだろう」という運命を背負いつつ政治家人生を生きたことだと報じられています。

 1960年代、若き日の彼はデート中に運転していた車が入江に転落して、自らは命拾いしたものの、相手の女性を死なせてしまったのです。もちろん、事故であり故意ではないので法的な責任はないとは言え、政治家としては大きな汚点になりました。特に、大統領候補としてはそうしたダークなイメージは通用しないということでしょう。兄たちの無念を晴らす道も絶えたわけです。

 しかし、エドワード氏の数々の功績を讃えた記事には、この苦い経験があったからこそ彼は人一倍謙虚さを身につけ「弱きもの、虐げられたもの」たちの為に生涯闘い続けたとありました。中でも人種差別との闘いがその一つであり、オバマ氏を大統領候補に強力に推薦したのもエドワード氏でした。オバマ大統領実現の功労者です。

 若き日の過ちに苦悩したからこそ、人間としてより心豊で慈悲深く成長した、エドワート氏についてのそんなホマージを読むにつけ、苦しみにも意味がある、神は意味なく人に苦しみを負わせないのかもしれないと思わずにはいられません。
by yoshikos11 | 2009-08-30 01:54 | Comments(0)

名古屋での一日

 昨日は名古屋の金城学院大学大学院をご訪問して、「グリーフ研究会」の若い研究者の方々と一緒に良い学びのひと時を持つことが出来ました。研究会を主催されているM教授のお計らいで一日、お仲間に入れて頂き、私はちょっとした学術発表をさせていただきました。

 演題は「セラピーによる自己変革の実現」とも言うべきもので、ニーメヤー先生が長年の臨床経験を基にして「構成主義のセラピーとは何か?」を考察しまとめた論文を紹介しつつ、効果的なセラピーによってクライエントがどのように自分の問題や悩みと向合い、変革していくかを解説しました。

 経験豊なセラピストの情熱と人間愛によってあたかもマジックのように、悩める相手が変わっていくのです。将来、臨床家を目指す若い研究者の皆さんが、この講義で勇気づけられたらよいなあと期待しつつお話をしました。

 実は、M教授、昨年一年間、GCCの講座に毎週、名古屋から(東京まで)通って下さったという経緯があり、その間、私は頭が下がる思いでいました。M教授は、キャリア・カウンセリングでは第一人者、個人的なご経験からグリーフ・カウンセリングにご興味を持たれ、たまたまGCCのことをサイトで探し当てて下さったのです。それ以来のおつきあいです。

 M教授の熱意と努力に敬意を表したい、いつか返礼として私が名古屋を訪れて先生の生徒さんにお役に立ちたい、そんな風にずっと思っていたところ、昨日、その機会が到来し実現したのです。うれしかったです。

 明日で8月も終わりですが、この夏は大阪や名古屋、遠隔地でグリーフやグリーフケアに関心を持つ方々との出会いがたくさんあり、私自身が励まされました。今後とも地方にどんどん進出したいと思っています(グリーフケアの講演にご関心のある団体、グループどちらでも伺いますので!)

 また、グリーフ研究に熱い関心を示す皆さんにもお会いして、本分野の将来的発展にも多いに期待が持てて頼もしくも思いました。

 
by yoshikos11 | 2009-08-30 00:19 | Comments(0)

NICU スタッフとの出会い:思うこと

 昨日は大阪の二つの病院(市立、府立の大病院)で医療従事者の方々に講義をしたという報告をしましたが、その後、講師としてうれしいフィードバックをいただきました。その中で「現場で働く者立ちのジレンマを鈴木先生に理解してもらえた、励みになった」というコメントがあり感動しました。

 私は、医療の方々のご苦労を日頃から多少なりともお察ししていました。特に、医療技術や薬品開発が画期的に進歩したことで、今や一般の人たちは「たいていの病気は治る」「未熟児でも救われる」と信じているところがあり、それだけに、医療側には過剰なほどの期待が掛かります。医療者はあたかもスーパーマンであるかのように。

 かつでは救えなかった命を救えるようになったことは、素晴らしいことですが反面、救えないことに対する敗北感や、裏切られたような無念さも、皮肉なことに現代は倍増しているのですね。そのことに起因したと思われるグリーフの激しい反応もケアの現場にいて感じています。

 話をNICUに戻すと、未熟児の救命率の高さには目を見張ります。しかし命の神秘を思うと100%を期待することは難しいのではないでしょうか?人間にスーパーマンや神様になることを期待する話に限りなく近づきます。

 グリーフケアに従事する者としては、たとえどうあれグリーフを抱えた方々を全面的に受けとめるようにし、また、講義でもそうお話しています。そして、グリーフに関する知識があることで、支える側の医療者にとって自信と心の準備に繋がることも確かでしょう。

 しかし、私たちは彼らにのしかかる心の負担、科学や医療技術が進歩したことで抱えるジレンマについても少しは理解し、改めて「命」が与えられるものであり、「命に限りがある」ということを思ってみる時期が来たように思います。

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by yoshikos11 | 2009-08-19 16:58 | Comments(0)

幼くして亡くなった姉

 f0101220_19455961.jpg 今日は、18ヶ月で亡くなった姉の命日です。昨日、母と電話で話していて母がふっとそのことを漏らしました。そうでなかったら私は気付かずに今日を過ごしたと思います。それくらい、昔から姉の話については家で聞く事がありませんでした。きっと両親は話すのがつらかったのでしょう。

最近になってようやく母が語り始めました。小児の肝臓ガンで当時、東京中の名医の所へ連れて行ったそうですが救うことができませんでした。末期には赤ん坊も気分が悪くむずかるので、ずっと抱っこをして自宅の廊下を行ったり来たりしたこと、亡くなったときには赤ん坊が苦痛から解放されて、悲しいよりもホッと安堵したことなど話してくれました。

赤ん坊が闘病中、母の父(戦艦武蔵の造船に携わった私の祖父)も、過労が重なり心臓の病気で療養中だったそうですが、初孫を祖父がかわいがり何よりの慰めであったとのこと、そして祖父は8月12日に亡くなり、6日後の18日に姉が亡くなったのです。

母は同じ週に二人最愛の身内を失ったわけです。弔問に駆けつけた親戚の方々も「もう、何と申し上げて良いやら。。」と絶句したとのこと。しかし母は言います。「お祖父さまが先に逝かれて良かった。恵美ちゃん(姉のこと)をお祖父さまがあっちで待っていて下さると思うと安心できた。一人で逝かせるのはあまりにも辛かったでしょうから」と。

私は「ご病気のお祖父さまを悲しませないために、恵美ちゃんは6日間、きっとがんばったのね」と母に言いました。恵美ちゃんはお祖父さま孝行をしたとも。しかしグリーフカウンセラーとしては「そうは言っても、ママはさぞ辛かったでしょう。身を切られる思いだったのね」と慰めることも忘れませんでした。
 母とこんな話をしたのは初めての気がします。電話を切る前に母は「貴女とこんな話が出来て本当に良かったわ」と言ってくれました。

この世では出会うことのなかった姉なのですが、今年の命日はなぜか姉を近くに感じます。そして、生きていてくれたなら、私も頼れたのに惜しい事をした」と妙に実感しました。

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by yoshikos11 | 2009-08-18 20:40 | Comments(0)

NICU の医師、ナースの方々との出会い

遅ればせながら「真夏」がようやく訪れたと思ったら、朝夕はそれとなく涼風も吹くようになりました。残暑の話をする間もなく一挙に秋に突入の気配?

さて、先週末は大阪の二箇所の病院でNICUの医師、ナース、助産士の方々を対象に、グリーフ講座を開催させていただきました。病院でも「産科」に足を踏み入れた途端に新しい「命」のエネルギーを感じるものですね。エレベーターで「生まれたて」の赤ちゃんをナースの方が抱えて乗って来られ、思わず顔がほころびました。

しかし、そのような現場でも赤ちゃんが亡くなることも、死産で産声さえ聞けないこともあるのですね。そうした経験はお母さんにとって言葉に言い表せないほどの苦痛でしょう。恐らく経験したものでなければ分らないのではと思います。

一方で、悲しみの瞬間に立会う医師、ナースの方々、お仕事とはいえ、支える側の苦痛も並大抵ではありません。今回、そうした現場の生の声を聞いて、私が想像していた以上に大変なのだと痛感しました。講師としてグリーフ・ケアについて講義をしたのですが、むしろ「人間の極限的な苦しみ」について私自身が学ばせていただいた気がしています。

「他者の痛みに無関心ではいられない」ということが本来の人間の姿であると言われます。医療者の方々は「お母さんの苦痛を支えてあげたい」と心底思っていらっしゃる様子が、お会いした皆さんからヒシヒシと伝わって来ました。グリーフ・ケアについて学びたいという比類のない熱心さに、頭が下がり、私の提供できる知識や情報の全てをお伝えして応援したいとも思いました。

しかし、現場の方々は生きた知恵をお持ちであり、既に遺族の気持に充分、寄り添っておられるようです。看護士長さんの言葉に目から鱗でした。「死産したお母さんにかける言葉はありません。私は黙々と赤ちゃん(亡骸)にお湯を使わせ、きれいな衣服を着せて上げ、抱っこできるように準備をします。ひたすらそのことに心をを集中させます」と。

生きている赤ちゃんにやって上げると同じことを、心を込めてやって上げる、お母さんにとってそれは大いなる慰めであると思います。苦しみにある人は、他者の思いやりには敏感でしょう。言葉をかけなくても、人間愛は相手の態度から充分に伝わると思うからです。

産科や小児科の人手不足という難しい現状にあって、いかに遺族に寄り添ったら良いか真剣に考え、グリーフ研究会を持ったり、退院後も遺族会を開いてフォローをしておられる、その尊い気概にエールを送り、私はぜひ、そうした皆さんを支える側にまわりいと思っています。

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by yoshikos11 | 2009-08-18 19:12 | Comments(0)

映画『ポー川のひかり』

 久々にイタリア映画を見て来ました。エルマンノ・オルミ監督の『ポー川のひかり』です。かつてイタリアのファッション・ハウスの仕事をしていた頃には、年に2~3回はイタリアを訪れて、仕事を通してイタリア人の友だちも何人かできました。イタリア語はついに覚えそびれましたが(仕事仲間は皆英語でOKだったので)耳慣れてはいました。

 そんなわけで、映画の雰囲気には直ぐに馴染み、すっかり気分はイタリアになりました。映画の登場人物にかつてのイタリア人の友だちを思い出し、夏の夕暮れ時、屋外のテーブルを囲んでワインを飲みながら会話を楽しんだことなど不思議と甦って来ました。

 イタリアでは時間があせらず、ゆったりと流れる感じなのです。『ポー川』のように。この映画、ストーリーはともかくとして、そんなイタリア感を満喫させることが、製作者の一つの意図のように思えました。一緒に行った友だちが「このゆったりしたタイミングが心地よかった」と言っていました。

 主人公は、将来を嘱望された新進気鋭の神学と哲学の学者ですが、象牙の塔に籠って例え何万冊の本を読破し知識を詰め込んでも、論文を数々発表しても、一体人類のために何の役に立つのだろうと疑問を持ち始め、ある日突然、輝かしいキャリアと決別し放浪の身になるのです。
 
 そこから普通の人々の人情に触れ、人間味溢れるお付合いも始まります。彼の知識に敬服し,教えを請う人たちも現れます。いつしか、彼はキリストというあだ名がつきます。いわば、哲学や神学が実生活に役に立つことが実証されていくのです。聖書のエピソードも誰かの悩みに良いヒントを提供します。(信心深いか否かは別として、イタリア人なら聖書の有名な逸話は知っていると言う点は見落とせないですが)

 学問探究と学問を実社会に生かすこと、これをバランス良く実行するのは理想ですが、中々難しことですね。どちらも時間が必要、どうのように配分するのか。映画を見ながら自分の問題でもあるなあと思っていました。そんな風に思う人は多いのかもしれません。

 今夜は、私が通っている「聖書研究会」の先生(司祭)と勉強仲間と一緒に映画を鑑賞し、その後に近くの喫茶店へ。大きなテーブルを囲んで共に感想を分かち合い余韻を楽しみました。イタリアの田舎ならぬ都心の集いでしたが、「きょうだい達」が共にいて贅沢な時間が流れました。

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by yoshikos11 | 2009-08-12 01:47 | Comments(0)

原爆の犠牲者を悼む

 広島原爆記念日に、広島の市長は日本が世界で唯一の被爆国として、核爆弾の脅威を世界中に訴え続けること、また、核廃絶に精魂を傾けることを使命と感じると宣言しました。唯一、使命を果たすことで、原爆の犠牲になって亡くなられた20数万の方々の無念さに報いることができるとも言っていました。

 私はまだ原爆記念館を見学したことはありません。しかし、身内を原爆で亡くされた方の手記などを読んで、いかに原爆犠牲者の死に様が非人間的であり、傷ましく、人間の尊厳をそこなうものか、痛感しました。その描写を読んだだけでも恐怖が走り、忘れられないほどですから、実際に目撃した方の衝撃やトラウマはどんなだったでしょう。

 確かお母さんが長崎で原爆の直撃を受けて即死された方の手記でした。お母さんは、自宅の蔵の前で亡くなっていたそうです。「人間がこんなに様変わりをしてしまうなんて信じられなかった」と言われます。

 「母はもはや人間の原型を留めておらず、どこが顔で、眼で、体で、手足なのかさえ判別不能であり、全てが一個の白っぽいボールのような塊りとなって転がっていた」と。何と言う傷ましさ。人が人をこんな目にあわせるなんて、決してあってはいけない、許されないことです!

 また、当時の米国大統領トルーマン氏は原爆投下後の広島、長崎の被害の模様を撮影させ写真を持って来させたそうですが(原爆の破壊力について知る必要があったのでしょう)実際、それらの写真をつらつら眺めて「原子爆弾は二度と使ってはならない」と即、部下に言い渡したと言われます。原爆投下を決断した彼が良心の呵責に苦しんだことも想像できます。

 戦争が罪作りである一番の由縁は、何の責任も影響力も罪もない一般市民がまっさきに犠牲になることです。日本が世界平和の推進役になることを切に願います。

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by yoshikos11 | 2009-08-10 03:15 | Comments(0)

戦艦「武蔵」に思う

 NHK BS の番組「兵士たちの戦争」で戦艦「武蔵」最期の瞬間を語ってくださった「生還者」のもと海軍兵士の方々に私は、何やら親近感を覚えました。
 
 というのは、あの船に個人的な思い入れがあるからなのです。船の実物を一度も見た事はありませんが、実は、母方の祖父が造船技師で、三菱長崎造船所で「武蔵」の設計から造船まで総責任者として従事したからなのです。「武蔵」に精魂を傾け、寿命も縮めたと聞いています。(稲垣鉄朗といいます。吉村明著、戦艦武蔵 、新潮文庫参照)

 当時、祖父は東京の海軍省から度々呼び出され、長崎と東京を汽車で何回も往復していたそうで、今のように新幹線も飛行機もなかった時代ですから体にこたえたようでした。母に言わせると祖父は軍人ではなかったけれど、結果的には戦争によって殺されたようなものだと。

 そんなわけで、夕べは映像で、戦艦「武蔵」の沈没の様子を見て、私は個人的にグリーフしていました。「ああ、お祖父さんが造った船が沈んでしまった」と寂寞感が襲いました。

 また、「武蔵」生き残りの一人の方が、船の沈む瞬間を思い出しながら、船を愛おしむように、無念そうに「本当に見事な船だったんですよ」とポッツリ一言、語ってくださったのがうれしかったです。きっと美しい船だったのでしょう。船の最期を見届けてくださった方々、ありがとうございました!

 そして最期になりましたが、生還できずに戦死された兵士の方々の死を悼みます。

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by yoshikos11 | 2009-08-05 16:13 | Comments(0)

平和を祈る一週間 続き

 明日は広島の原爆記念日ですね。オバマ大統領が4月にチェコスロバキアで「核廃絶」の志を表明したのに押されて「No More 広島」「No More Hibakusha」の声も広島、長崎では高まりつつあるようです。
 今週はNHK BSで「兵士たちの戦争」というシリーズを特集しており、かつて太平洋戦争に参戦した元兵士の方々のインタビューを中心に、戦争のドキュメンタリを特集しています。

 夕べは当時、戦艦「武蔵」の乗組員であった海軍兵士数名の回想を聞きました。当時、16〜17歳だった彼らも今は80代の高齢者です。しかし戦争の思い出を語るとき、皆さんまるで昨日のことのように鮮明に覚えているのが印象的でした。かつての恐ろしい経験とそのときの感情が甦るようです。

 戦艦「武蔵」はフィリピン・シブヤン沖で米軍の戦闘機の銃撃を浴びるように受けて、ついには沈没します。昨晩、思い出を語った方々は沈没寸前に海に飛び込んで九死に一生を得たのですね。その中の一人が片足を負傷しながら必死で泳いだ時のことを語りました。

 「利き足だけで必死で泳いだが、何度も海の底へ沈みそうでした。かろうじてドラウム缶に掴まろうとすると、同じ戦艦の兵士か将校か分らないが、誰かが自分に掴まろうとするので、二人とも沈みました。やっと浮上するとまた、同じ人が肩につかまろうとします。こんな事をを2〜3度繰り返し、自分はこのままでは死んでしまうと思いました。」

 ここまで語り、息を飲み、語り手はとても苦しそうな表情です。そして続けました。「とうとう、3回目か4回目にこの人に掴まられたとき、私は足で彼を蹴飛ばしました。彼は沈み、二度と浮上しませんでした」「何年たっても忘れられません。その方に、本当にあの時はゴメンナサイと謝ってきました。」と言って涙をこらえきれない様子でした。

 顔を涙でくしゃくしゃにしながら、まるで映像で相手に謝っているかの様子でした。何と言う経験でしょうか。64年間、彼の胸にはこのつらい経験と罪責感が重くのしかかっていたのですね。戦艦の沈没というトラウマ、それだけでも大変なのに。誰が彼を責められましょう!

 戦争は何と罪作りなことでしょう。他の元兵士の方々も、当時の恐怖が幻聴や夢で甦り続けたと話していました。

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by yoshikos11 | 2009-08-05 15:55 | Comments(0)

アキノ元大統領の死去

 私たち一家は1968年から1975年まで夫の仕事の関係でフィリピンに在住していました。私は以来フィリピンを一度も訪れたことはありませんが、なつかしい思い出もありこの国には親しみも感じています。報じられたアキノ元大統領の死去に、今日は、フィリピン時代をふっと思い出しました。

 私たちが住んでいた頃はマルコス大統領の独裁政治の最盛期であり、政治的弾圧も強く、それに抵抗するテロ事件なども日常茶飯事のように起こった記憶です。政治的対立がらみと思われる事件で白昼町中で、或いは4つ星ホテルのロビーで堂々と拳銃で打ち合うこともありました。(たまたま居合わせた友人が西部劇の打ち合いシーンのようだったと言っていました)

 政敵と言えばマルコス大統領の独裁を阻止しようとしたのが、アキノ大統領のご主人だったベニグノ・アキノ氏。次期選挙戦に備えてアメリカで待機、機を見てフィリピンに帰国し祖国の土を踏んだとたん、空港で銃弾に倒れたのでした。当時テレビがこの悲劇の一部始終を報道し、衝撃を覚えたのを記憶しています。

 その後、犯人が逮捕されたかどうか忘れましたが、恐らく政敵のしかけたことではないかと噂されました。アキノ氏への国民の期待が大きかっただけに、暴力に対する怒り、不遇の死を遂げたアキノ氏に対する同情は高まりました。一方、マルコス大統領の威圧政治に対する憎しみが増大し、ついに国民によるクーデターにまで発展。マルコスは失脚、海外へ亡命したのでした。

 周囲の声援に押されて、アキノ夫人は大統領選に出馬し、見事当選しました。夫の無念を晴らしたことになります。People's Powerの支援で、初の女性大統領の誕生でもありました。貧困という大きな課題を抱えながらフィリピンの民主化に務めた功績は大だったのではないでしょうか。

 夫の志を引き継ぎ、恐らく想像さえしなかった政治の世界に身を置くことになり、全国民のリーダーシップを取らなければならなかった彼女、並の苦労ではなかったことでしょう。「主人さえいてくれたなら」と辛い思いをしたこともあったのでは?

 そして今は天国でご主人のベニグノ氏と再会して「ご苦労さん、よくやったね」と労いの言葉をかけられているのではと、ふっと想像してしまいました。彼女は国葬を断わりひっそりと見送って欲しいと遺言を残していたそうですが、教会には引きも切らぬ弔問者が後をたたないそうです。

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by yoshikos11 | 2009-08-04 01:11 | Comments(0)