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政治家だった祖父のこと

 仕事が山積みだというのに、なぜか、選挙というと私は夢中になってしまうようです。政治には関心がないと言いながらどこかで血が騒ぐみたいなのです。実は、父方の祖父が戦前戦後を通して、自民党の国会議員でした。
 物心ついて以来、選挙の度に一家で結果をドキドキしながた聞いていました。父は選挙の度に仕事を休んで祖父の地元岩手県(第一区)へ応援に飛んで行き、祖父と共に(時には祖父の代理で)県内各地で遊説していました。祖父の名は田子一民(たご・いちみん)と言います。

 祖父は33代目衆議院議長を務め、戦後要職にあったことで公職追放の憂き目に合いました。祖父は生涯平和主義者であり、太平洋戦争突入に際しても「日本の決断は間違っている」と家族には言っていたそうですが(もちろん、公には言えない状況でした)戦争の責任だけは取らされたわけです。追放解除になった日、父が躍り上がって喜んでいたことを今も鮮明に思い出します。戦後初めての衆院選に再出馬したときには、長い間公職を離れていたにも関わらず、地元岩手の方々は有り難いことに祖父のことを覚えていて下さり、全国最高点で当選を果たさせて頂きました。

 あの頃、小沢一郎氏の父上や後に総理大臣に付いた鈴木善幸氏などが同郷で,選挙を共に戦った同世代でした。その後、祖父は吉田内閣(麻生さんのお祖父さん)の大臣などの要職にもつきましたが、祖父についての誇りは、そう言った権威についてではありません。
 祖父は父親を早くに亡くし家が貧しく、小学生のときから印刷所の丁稚奉公をしながら、学問を志し、働きながら東大を卒業しました。そのせいでしょう。貧しい人,苦学生、母子家庭の方々には人一倍同情心を抱いていました。(困っている人に出会うと、涙し、財布ごと差し上げてしまうと、祖母はこぼしていました)

 政治家を志す以前(官僚でした)から、欧米の社会事業を度々視察し、いち早く日本に社会福祉事業の理念を導入。そして全国社会福祉協議会の設立に貢献し、初代会長に就任しました(1955)日本の社会福祉事業の礎を築き、生涯その発展のために尽くしました。

 父を含めて息子は4人いましたが、誰も祖父の地盤を継ぐ事はありませんでした。家族は「世襲」には興味がなかったのです。それで岩手県との繋がりが途切れてしまったことは、大変残念に思います。特に、父は祖父の活動を側でずっと支えて来たし、また、演説も祖父そっくりだったそうで、地元の方々からは出馬を薦められていたようですが、父曰く「公僕になるには、家庭を犠牲にする覚悟が必要。自分は家庭を投げ打つ気はない」と言っていました。
 父は本当に家庭を大切にした人でしたから、この言葉は本心だったと思います。一方で、日本の福祉事業や国民の幸福の為に生涯を捧げた祖父の情熱や高邁な精神には、とうてい太刀打ちできないと思ったのかもしれません。

 時代も変わり世も変わりましたが、新たな日本の歴史が開くと言われる今、国家のリーダーたちには「高い志」の為に闘って欲しいとあらためて思います。
by yoshikos11 | 2009-09-03 15:17
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