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アメリカ、オレゴン州にある身内を亡くした子どもたちのための「グリーフ・サポート」施設、ダギー・センターが先週の日曜日に火事で消失しました。IWG(International Work Group on Death Dying & Bereavement) のメール連絡で知らされました。どうやら放火事件のようです。
所長さんのダナ・シャーマンさんにはIWGのメンバーからお悔やみと励ましのメールが殺到しているようです。 ダギー・センターは米国ではもとより世界的にも知られており、1982年以来、多くの子どもたちに安心してグリーフする場所を提供してきた功績は高く評価されています。子どもたちだけでなく、その親たちも共に参加し、配偶者の死により心に大きな悲しみ、肩には子育ての重責、同じ境遇のもの同士が、慰め励まし合う場所でもあるのです。 焼け跡を前にして語る若い女の子「父親を亡くしたときダギー・センターは唯一安心できる場所でした。同じ境遇の友だちと語り合うことで慰められ、自分にとってホームでした。今、ホームを失ってあの時みたいに悲しくてなりません」と。 ダナさんを初め、多くのボランティアが悲しみや苦しみを経験している子供たちに手を差し伸べ善意の働きをしています。なぜ、そのような「善意」の支援者が放火魔の標的にされなければならないのでしょうか? 周囲はダギー・センターが多くの人たちから感謝されることはあっても、誰かから恨みを買うなどは想像もできないと言っています。矛盾です。しかし心を病んだ犯人は相手は誰でもいいのかもしれません。他者にダメージを与えることでのみ、自分が救われた気持になるのでしょう。 ダナさんは「子どもたちは、親を亡くして安心できる場所を求めてダギー・センターにやって来ます。その場所が安全ではないと知ったら、どんな気持でしょうか? 特に、火事で身内を亡くした子どもにとっては再び、トラウマを思いださせるので心配です」と嘆きのコメントを出しています。 善意の人々が危険から守られ、心を病んだ人々を救う手だてがないものでしょうか? 私のサイトもご覧ください:http://www.gcctokyo.com ▲
by yoshikos11
| 2009-06-27 01:10
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先日、生命倫理に関わるテーマについて、「脳死、血の通った視点を」という私の思いを綴りましたが、周囲の他の方々はどう思われているのか、とても気になっていました。
そんな時、今夜は上智大学の死生学講座で生命倫理の講義があり、専門家、小出泰士先生の話を聞くことができました。タイトルは「終末期医療のこれから」というもの。私にとってたいへんタイムリーでした。 小出先生は行き過ぎた延命治療を批判され、時としてそのことが一層、患者さんを苦しめる結果に繋がっていると言われ、また、臓器移植に関する議論にしても、ややもすると「なにがなんでも患者を治療し、死を撃退しなければ」という前提で薦められている、何かが違うのではと指摘。 もっとバランスある視点、すなわち、一日でも長く生かすことのみ考えるのではなく、人間が死を迎えることは自然なプロセスであり、その宿命を受入れることも大切であるというご意見でした。また、受入れて死と生について深く考えることで私たちは学ぶことが多々あるのでしょう。 また、「脳死が人の死」という考え方について、先生は患者を単に「壊れた体」としか見ていないから言えることだと。実際、周囲の身近な人にとって患者は、生涯の思い出であり、存在そのものに大きな意味があるのであって、そう簡単に諦められるものではないと言われました。 彼らにとっていくら死を宣告されても「患者は少しも死んでいやしない」と! 小出先生のお話を伺い、私がこのテーマについて感じていたことが、独りよがりではなかったことが分り、とても安心しました。生命倫理の話は一人一人が実際どう感じ、思うのかがとても大切な気がしています。 私のサイトもご覧下さい! http://www.gcctokyo.com ▲
by yoshikos11
| 2009-06-24 00:19
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一昨日、臓器移植法改正案が衆議院を可決しました。A案、すなわち、脳死を「人の死」とすること,それを前提に15歳未満からの臓器移植提供を可能にすること、が過半数の議員により支持されたことになります。
脳死が「人の死」か?については延命医療の進展とともに、ここ長年に亘って議論されてきたテーマではありますが、そう簡単に判断しかねるこの生命倫理の問題、臓器移植を促進させる必要性から決断を迫られることになったのですね。 特に、臓器移植以外には救う手段のない障害を抱えた小児の親たちの、切なる願いやアッピールや、また海外での臓器移植訴求が困難になりつつある現状から、今回の法改正が急がれたのでしょう。外国から「日本人は日本で解決して欲しい」というプレッシャーもあった。 "GAIATU"で動き出す日本政府の有り様がここにも浮き彫りに。 しかし、脳死が人の死か否かの議論は、臓器移植だけに関わったことでは毛頭ありません。実は、終末期医療の大きな課題であり、脳死状態の患者さんをいつまでライフサポートで延命させるのか、という法律だけでは到底、割り切れない側面が多々あります。 自分の親や子どもが脳死の状態だったら? 特に、本人の遺書や指示書もない場合、私たちにとって「延命装置」中止の決断を下すことは、時として、たいへんな葛藤かもしれない。恐らく心の傷みも伴うつらい体験でしょう。脳死状態の息子さんを持ち、最終的に延命を中止した柳田邦男さんの著書、「サクリファイス」はあまりにも有名で、親としてのつらい気持が面々と綴られています。 人の死の決定は、あくまで個々の具体的なコンテクストに於いて、家族や医療者など直接に関わる人々が真剣に、葛藤しながらも決めるべき問題、いわば他者が立ち入れない「神聖なる」決断であると思います。その過程で臓器提供のことも意識するかもしれませんが、提供するしないは家族の志に委ねられるべきことであって、提供することを当然視されるとか、またはプレッシャーになるなどはあってはならないと思います。 もちろん、臓器移植を必死で求めている人々の思いや、何とか救って上げたいという支援者の善意は分りますが、「人の死」すなわち、「誰かの死」であり「身内の死」の場合もある。そして、その周辺には脳死を「身内の死」とは受入れ難い人々の血の通った、複雑な思いもあることを忘れてはならないでしょう。 私のサイトもよろしく:http;//www.gcctokyo.com ▲
by yoshikos11
| 2009-06-20 10:59
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「悲しみよこんにちわ」とかその著者、フランソワーズ・サガンと言っても今の若い方々には馴染みがないのかもしれませんね。1960〜70年代、日本人が今よりもフランスとフランス文化全般に憧れを持つていた頃、一世を風靡した本であり新進気鋭の作家でもあります。映画化もされ、主人公にはジーン・セバーグというボーイッシュなセクシーさが売りの若手女優が抜擢され、一時、セバーグ・カット(ショートの髪型)やファッションが流行りました。
最近、その作者の生涯を画いた映画「サガン,悲しみよこんにちわ」が上映されました。主人公サガンをシルビ・テスティユーが演じています。私もかつてはフランス語を熱心に習い、フランス映画や文学に熱中していた頃がありました。それでノスタルジックな理由からこの映画を見に行きました。 「悲しみよこんにちは」と言う作品で、サガンはフランス・ブルジョワ階級の華やかさ,優雅さ、そして退廃的生活から漂う虚無感や愛の不毛を画いています。実は作品の主人公がサガン自身でもあり自叙伝小説なのです。 日頃はパリに暮らし、夏は長いバカンスを南仏の海辺の別荘で過ごす18歳の娘。自由奔放に(というか甘やかされて)育った彼女が退屈しのぎに大人のロマンスに首を突っ込み、小悪魔的にちょっかいを出す、結果、火遊びの付けとして父親の愛人を確か交通事故死させてしまう〜と言う悲劇だったと記憶します。 18歳の感受性で大人の愛の甘美とアンニュイと、その果てに虚無感まで経験してしまうという主人公、青春時代のナイーブさや愛への夢はその時点で早くも喪失するということでしょう。それが「悲しみよ、こんにちわ」の意味。サガン自身のグリーフ経験でもあるわけなのですが。 作家として無名の新人が一躍世界的名声を博す。何人もの取り巻きに囲まれながら、満たされることのない愛の乾き、作家活動の重圧、孤独感から次第に薬物やアルコール依存になっていくサガン。自由を求めて止まなかった彼女が自由を失っていく様子がこの自叙伝映画に見てとれます。 映画を見終わって「なぜ、かつてフランス映画やサガン作品に引かれたのだろうか?」と思ったほど、今や古いものがえらく場違いに思えたり、色あせても見えたと言うのが正直な感想です。ノスタルジーというより、うつろい行く時代を強く感じた映画でした。 ▲
by yoshikos11
| 2009-06-17 04:03
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![]() 夕べ「ツレ(夫)のうつ病」というドラマをやっていました。一時、書店で「うつ病」に関する本がにぎわっていましたが最近はテレビドラマのテーマにもなるのかと思いつつ、少し気になり見る事にしました。 藤原紀香演ずる妻はツレ(この言葉流行?)がうつ病を患い,仕事に行けないばかり対人恐怖症のようで、ひどい時には起床することもできない。そんな夫を彼女は漫画家として得た収入で支え、親身になって励まし共に「うつ病」の苦難を背負っている。 ツレの苦しみはもとよりツレを背負う妻も悩み抜く。ある時妻は「うつ病」をテーマに二人の人生を漫画にしようと思いつくがその企画に出版社が乗り気になる。夫も説得される。「僕の経験が他の人たちに役に立てるなら」と前向きなのである。二人は「coming out」を決心! しかし、いよいよ本の出版直前にツレは「同じうつ病でも僕のは特殊で他の人には理解できないと思う、だから本の話は中止して欲しい」と言い出す。幸か不幸か時既に遅し、本は次の日に店頭に並ぶ。 本の反響で作家の妻のことろに、同じ病気で悩む大勢の人たちからメールが殺到。その内容の多くは「自分も全く同じ悩みで苦しんで来たが、自分だけでないと分ってホッとした」というもの。ツレがそれを知って「そうなんだ〜僕安心した!」と歓喜する。その後二人は講演会でも話すようになり、更に多くの同じ立場の人たちを励ますことになる。 このドラマのテーマは「うつ病」ですが、グリーフ(死別後の悲嘆)とも共通することがあります。確かにグリーフも当事者を「弱く」し「心細く」し「自信喪失」させることもありますが(うつ病と紛うことも)「弱さ」が悪いことではないのですね。大切な人を亡くした正常な反応です。 一時的にせよ「弱くされた」自分を認めて「coming out 」することが大切と思います。グリーフも「私のこの苦しみは特殊で他の人にはわかるはずがない」と思うことがシバシバですがそこを思い切って、誰か親身になって聞いてくれる人に打明けてみる(例えばGCCの門を叩くなど!)〜そこから意外に道が開けることがあるかもしれません。 私のサイトもどうぞ:http;//gcctokyo.com ▲
by yoshikos11
| 2009-06-13 13:57
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![]() 6月、といえば「あじさい」の花が美しいですね。以前、GCCでレクチャアをして下さったS牧師のお話を思い出します。「あじさい」の花言葉は「移り気、浮気」(色が変わる事から)だそうですね。 S牧師はこの花言葉「あじさいにはちょっと気の毒」と思われたそうですが、ある人のエッセイで花の汚名を挽回する表現に出会って喝采したと言われました。「雨に打たれながら色を変えつつ鮮やかに花を咲かせるアジサイはえらい」と言うものです。 同じものを見ても一つはマイナス面を強調し、もう一つはプラス面を強調している。言われる者にとっては気分が180度違いますね。けなされるのと、褒められるのとでは。褒めるとは、S牧師曰く相手に「祝福」を与えることだそうです。(あなたが居てくれて良かった〜と言う意味かと) 私は「あじさい」を移り気とか浮気とか思ったことはありません。グラーデーションの美しさにいつも目を楽しませてもらっています。特にウットオシイ梅雨時は気持が晴れますね。 私のサイトもよろしく:http;//www.gcctokyo.com ▲
by yoshikos11
| 2009-06-12 18:40
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昨日のブログでは、GCCの「勉強会」について書きましたが、多少、PRしたい気持はあったものの、一方で、「もう、これ以上はPRするまい」と自分に言い聞かせたところも正直ありました。
自分にとって「キラリと光る」もの「あっ、これだ」とピンと来るもの、それが人であっても、情報やサービスであっても、所詮「必死で求める」気持があってこそ、良い「出会い」は可能なのではと昨今、痛感しているからです。提供する側の鐘や太鼓のPRには自ずと限界がありますね。 その意味で「出会い」(ご縁)とは不思議でもあり、神秘的でもあり、「求める人」には飛び込んで来るし、与えられると言ったら良いのでしょうか?その領域は、神聖と言うべきか、PRなどとても立ち入れないところ、「もう、あまりPRするまい」と思った由縁です。 私がロバート・ニーメヤー先生と出会ったのは2004年、カナダの国際死生学会でした。死生学のコースを2年修了した私は、もちろん先生のご高名は知ってはいましたが、講義を直接聞いたのは初めてでした。テーマは:「喪失、グリーフ、意味の探求」でした。 あのときの感動と興奮は今でもよく覚えています。「私が、過去9年間求め続けていたのは、まさに、喪失後の意味だったのだ!」と閃きました。先生の話の全部が私の「魂の乾き」にすーっと入って来た感じでした。講義後、直ぐに先生に話をしてご著書にサインを求めました。 その本が日本帰国後、私が翻訳を手がけた「大切なものを失ったあなたに:喪失を乗りこえるガイド」です。あの時から6年の月日が過ぎましたが、その間、私はずっとニーメヤー先生に師事し、不肖の弟子ではありますが、御世話になっています。 カナダでの4年間の留学生活を終えて、ソロソロ帰国の準備を始めたあの頃、まるで最後にお餞別(ギフト)をもらったようだ〜そんな風に思える、ニーメヤー先生との出会いでした。 GCCサイトにニーメヤー先生の情報があります:http://www. gcctokyo.com ▲
by yoshikos11
| 2009-06-07 14:32
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今月27日(土曜日)には、金城学院大学教授、宗方比佐子さんをGCCにお招きして、勉強会を開きます。宗方さんは臨床心理士、キャリア・カウンセリングの専門家ですが、ご自身が若くしてご主人を亡くされたご経験から、グリーフ・カウンセリングにも興味を持たれ、GCCで講座も取られました。
講座取得中は、毎週、名古屋から通って来られたことに、主催者である私は敬服しました。そのようにご本人に伝えると「でも、鈴木先生がご主人を亡くされてカナダに留学されたことを思えば、たいしたことありません」と、いとも簡単に言われました。 さて、宗方さんは今回の勉強会で、ご専門であるキャリア・カウンセリングの探求することと、グリーフ・カウンセリングのそれが実に一致するところが多いことから、二つの領域をコラボさせる新たな試みを発表して下さる予定です。 コラボと言っても、グリーフをどうとらえるかにもよるのですが、宗方さんはGCCが標榜しているロバート・ニーメヤー先生の主旨に多いに賛同してくださった一人です。 ニーメヤー先生は「喪失体験後の人生をどう生きるのか、変化した自分の世界にどう適応していくのか、それがグリーフの最大の課題」と言っています。 グリーフとは人生のギアチェンジがテーマだとするなら、キャリアも常に変遷し決して平坦ではないロードマップ上、どうドライブしていくのかという課題があるはずなので、何となく宗方さんが言われることが想像できます。詳しいことは勉強会に期待、今から楽しみです。 先日、勉強会の準備のために、宗方さんと電話で夜中の1時過ぎまで長々話し込んでしまいました。私も、死別体験がきっかけで、キャリアを180度転換させた一人なので一「事例」として自分のストーリーをお話したのでした。勉強会では「事例S」の場合で引用されるかもしれません。 愛する人の死をただの喪失に終わらせたくない、その後の人生を意義あるものとするための「シード」(種)にしていきたい、そのことで喪失にも「意味」を付加したい(ニーメヤーは「意味の再構成」と言う)〜そう思っている「同士」の方たち、宗方さんのお話、聞き逃せませんよ! このテーマ、身近でありながら、なお且つ学問的にハイレベルでイノベーティブなアプローチ、外ではめったに聞けないでしょう。(他では恐らくないのでは?) 最近、この意味で「同士」の方々が遠路遥々(遠くは広島や福岡からも)GCCへ訪ねて来られるようになりました。「人生が掛かっているのだから、距離や費用をいとわなくて当然」と言われます。敬服しきりの私です! 詳しくは:GCCのサイトをご覧下さい:http://www.gcctokyo.com ▲
by yoshikos11
| 2009-06-06 12:18
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昨日は、上智大学の公開講座でALS の患者さん(塚田宏氏)と奥様を迎えての講義がありました。宏氏はベッドに横になったままの参加でした。ALSは、体中の筋肉が徐々に麻痺していくという極めて過酷な難病です。宏氏は現在、四肢も萎えて、発声もできず、飲食もできず、24時間呼吸器に頼っています。
意思の疎通は、視線で「あいうえお」の表を追うことで、奥様がご本人の意志を読み取ります。しかし、奥様が夜、眠ると何かあっても「呼ぶ」ということができない宏氏は「とても不安になる」そうです。 これだけの苦難を背負ったら、生きることにめげてしまい、絶望しても不思議はないと思うのですが。しかし、宏氏が極めて前向きに生きておられるのには、心底、感動しました。 「人生は楽しまなければ」という宏氏の不屈の精神で、ご夫妻は美術館やお好きなジャズのコンサートにもしばしば出かけ、海外旅行もあっちこっち行かれて楽しんでいます。 重病患者とは思えないほど、ご夫妻からは暗いイメージが感じられず、ネガティブな言葉が見つかりません。「どこから、そんなエネルギーが出て来るのですか?」とある受講生が質問したことに対して、宏氏は奥様の通訳を介して「生きたいから生きている」と答えられました。 私は、これほど「一生懸命」に生きている人にかつて出会ったことがありません。どんな苦しみにも困難にも負けずに、ひたすら真摯に「生きる」宏氏の姿に、「人間の崇高さ」と「命の尊さ」をひしひしと感じたのでした。 恐らく、多くの人たちが彼から、勇気と励ましをもらうのでは? 先日は、高齢者の「自殺」についてブログに書きましたが、宏氏の生きざまを見たら「どんなことがあっても、人は生きなければいけない」と誰しも思うのではないでしょうか? 私のサイトもよろしく:http://www.gcctokyo.com ▲
by yoshikos11
| 2009-06-04 02:33
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上記タイトルである教会の司祭が書いている記事を興味深く読みました。20年来、説教をして来ているこの司祭が、最近、会衆の「聴こう」とする姿勢が次第に衰えつつあると指摘しています。これは教会の中だけではなく、大学や企業で講義をしている講師たちの声でもあるそうです。
この司祭曰く「アイディアではなく、まず言葉(語り手の)を聴こう」ということ、例え知っていると思うアイディアであってもその時、その語り手が自分の言葉でどう表現するのかに注意することで,例え「新しいアイディア」でなくても新たに学ぶことが沢山あるはずだと。 なぜ、今このような傾向になったかという理由として、彼は「話し手と聞き手の関係が、販売者と消費者の関係に近くなった」ことを上げ、説教や講義の価値についてその責任が全て語る側にあると一般が思ってしまっているからと言っています。 さて私は説教者ではありませんが、グリーフ講座の講師として「ああ、今日は聴き手にたいへん支えられたなあ」と実感することがあります。聴き手次第で、講師は話の内容を深めることも、拡げることも可能なのです。この司祭が言うように説教も講義も一方通行ではありえないと思います。 勿論、講師は常に切磋琢磨して新情報を導入する責任があることは言うまでもありません。一方で、学問の世界では常に画期的な話題で、聴衆をエンターテインするなど不可能です。深い内容やアイディアは何度も繰り返して聞く、違った角度で考えるなどにより、徐々に消化吸収されその人の知恵として定着するのだと思います。 私の恩師、ジャック・モーガン先生もそう言われました。「講義を一度聴いただけで全て分るなどと思ってはならない。人は忘れることもあるし何回も同じことを聴いてやっと少し理解できるのです」と。 私のホームページもよろしく:http://www.gcctokyo.com ▲
by yoshikos11
| 2009-06-01 16:11
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